26歳の秋に見た

 

(映画の感想というよりただの個人的なポエムに近い)

 

 

 

溺れるナイフを見た。

 

 

 

 

「作品らしさ」のニオイが強い映画だった。

 

「この曲いいから聞いてみて、CD貸すよ」という気軽さより

「一度は美術館に足を運んで、あの絵画を見ておいた方がいいよ」という感覚に近い。

 

 

大友として生きる重岡くんを見ておきたくて初日に観たけれど、色んな気持ちが渦巻いて眠れなくなった。

まずは大友がいてくれてよかった。夏芽にとって、というよりは、見ているわたしが救われた。

大友、ありがとう。重岡くんありがとう。

 

 

夏芽とコウと大友、十代のきらめきは眩しすぎて、私には重たくて苦かった。

恋、神様、仕事、学校、田舎、祭り。

 

私はもっと田舎の町で十代の青春を過ごして、それなりには恋もしたつもりだったけど、あんなに真っ直ぐに愛を叫ぶこともなければ、心を誰かと交わし合うこともなかった。

捻くれていて、キャピキャピすることは勝手にダサいと思っていて、適当に真面目ぶって、それ故に結局ダサくて、好きな人にも友達のフリをして、だからこそ友達にしかなれなくて。

だから夏芽のキスがめちゃくちゃに眩しかった。ティーンエイジャーだった頃に自分の部屋でこんなスムーズに愛を交わせたら、どれほどきらめいた青春を送れたのだろう。

 

 

確かに今までも誰かと心を寄せ合うことはあったし、これからだってとびきりの恋愛をする可能性はあるかもしれないけど、残念ながら26歳になった私にもう初恋や青春は帰ってこないということだけは分かる。

それどころか、ところどころが未完成なまま中途半端に大人になってしまったという現実が襲ってきた。

 

 



 そういう意味では私は私の神様と出会うことなくここまで歩いてきてしまった。

もしかしたらその場その場でぶちぶちと出会って縋っていながら、時の流れと共に通り過ぎていっただけかもしれない。

 

 

現実の重さに向き合える素直さが十代の私にはなかった。

 

と、気付いたときには26歳の秋だった。